友人がある歌を聴いて、「意味わかんねぇ歌詞。」と言った。
もうがっかり。何も言えん。ただ、ため息。
こんなことが前にもあったな・・・
知り合いのライブを観に行った時だ。
所謂、音響系と呼ばれる音楽があるが、そういった試みをやろうというライブだった。
全ての曲がそうではなく、一般的に言われる歌ものを数曲続け、ラストに一定のリズムと単調に繰り返すフレーズを基とし、ノイズや飛び道具的なエフェクト、それに加え生のギターとベースもアドリブで崩していく、といった最後には音階もテンポも無いものとなる様な曲だ。
もちろん、こういった類のものは一般の人には馴染みの薄いものだから、案の定「?」といった顔の客が多かった。
俺的には実に素晴らしいライブだと感じ、正にライブは生物ということを再認識させられたものだった。
選曲にしても演出にしてもそのステージは賞賛に値すると思えた。
ところがこのイベント、出演バンドの組み合わせが悪かった。
主催するバンドはアングラ系では名の知れた存在なのだが、同ジャンルのバンドを集める時間が無かったらしく、仕方無しにその辺のワケわからんコピーバンドをライブハウス側が適当に入れたらしい。
その為に、「?」という顔をする客が多かった。
俺の隣に、コピーバンドとその知り合いの客らしき男女入り混じった集団がいた。
彼等は俺の知り合いのステージが終わると、「こんなの音楽じゃねぇ」と言い放った。
俺はもうがっかり。というか呆れるばかり。
そう、「意味わからん歌詞」という言葉を聞いた時と同じ様に。
コピーバンドの方こそ、「それが音楽なの?」と聞きたくなるがね。
流行歌のコピーして何のオリジナリティも無けりゃ考えも無い。
そんなんで女とキャーキャー仲良くやってるんだから、本当に幸せな連中である。
本当のコピーってのは、他人の曲で自分なりの個性を生かさねばならないという、非常に難しいものである。それが出来てないで、ただコピーするだけのバンドばかりだったから、主催側も困惑顔だったのだろう。
人間の感情は、時に爆発的に高ぶることがある。
それを音や言葉にするというのは、まず不可能なこと。
言葉にならない時は叫ぶし、音にならない時は鍵盤を叩くだろう。
それこそが真実である。
そういった意味で知り合いのステージは賞賛に値すると俺は思ったわけである。
事実、外人さんは彼等に握手を求め、一方では「どのエフェクターでどうやってあの音を出してんだ?」とステージにかぶりつく機材オタク達。
まぁ、そういった玄人達の他に実に素晴らしい一般の客もいた。
コピーバンドを観に来ていた女の子、眼鏡を掛けた実に真面目そうな子だったのだが、困惑した表情をしながらも必死に理解しようと顔を上下させながらリズムを取り、視線はせわしなくステージ上の彼等の指先、あるいは表情を追いかけていた。
一聴して「わからない」と投げ出すバカな一般客がほとんど。ノイズが鳴り響く中、自分のフィルターを通し、理解、吸収しようしていた。
多分、理解は出来ていなかったのだろうが、何かしら感じるものがあったのだろう。
最後は薄っすらと笑みを見せ、律儀な拍手を送っていた。
そんな彼女の姿に俺は感動を覚えた。
前にもこの話、ブログでしたけど・・・
今の世の中、何でもわかりやすいものであることが重要視されている。
その結果、人間の感性も鈍り、思考する力も衰えいくばかり。
人間は楽で快適な暮らしを手に入れる為、そうしてきたのだから仕方のない当然の結果。
それは進化とも言えるし、退化とも言える。人それぞれの感じ方だろうが。
最初に戻るが、歌詞の話ね。
わかりやすいところで、コブクロとかGLAYの歌詞を見てみる。
目に見える、手に取れる様な実に具体的なものである。
わかりやすいと言えばそうだが、そこにドラマは無い。芸術性も無い。
芸術性は無いのに飾られた言葉だけがある。
言ってしまえば誰にでも書ける類である。
人間に個性は要らない、万人が共感できるかどうか、それが全て。
だからラブソングなんてのは題材にしやすい。
「流行り歌の鉄則」という名の敷かれたレールをいかに速く、上手く曲がれるか。
過密なダイヤに追われ、自由に走れない電車の様な。そんな小さな世界での切磋琢磨である。
一方、「意味わからん」と言われたチバユウスケの詞。
一見すると確かに意味不明。
だが、その意味を理解するとそれまでの印象はがらりと変わる。
具体的な言葉を使えば人に伝えるのは容易である。
例えば「愛してる」という言葉。
これはたった一言で相手に気持ちを伝えられる非常に便利なものだが、それ故に「何がどうなって愛してる訳?」と突っ込まれる危険性がある。
チバの書き方では「愛してる」とは書かない。
では何を書くかと言うと、「何がどうなって結果としてこうなる」というそこまでのドラマを書く。
それは具体的であったり、比喩的であったり色々だが。
そして、共感を得ようとはしない。
自分の世界、気持ち、それをそのまま書いている。
人にとってはどうでもいいこと、それでも自分にとっては大切なもの。
だから伝わらなくても書く。
ある意味、それは自慰行為だが、己を貫く確固たる意志とも言える。
ピカソにしてもバッハにしても。
敷かれたレールなんてどうでもよくて、道なんてある様で無い荒野を行きたい方へハンドル切って止まりたきゃブレーキ踏んで・・・という車に近いものである。
幾ら自由度が前者よりあると言っても、これを鳥に例えてしまってはいかん。
チバの音楽は守るべきルールは守り、伝統を継承しようとしている。
もっと崩しても良いかと思う一面もあるが。
詞に関して言えば、チバはロマンチズム。
浅井健一は芸術的といったところか。
まぁどちらにしても感情的で官能的。
言葉なんてどうでもよい、ということを理解した上で言葉の大切さを理解していないと書けない類。
簡単に言ってしまえば、どうでもいいことはどうでもよくて、要所は締める、みたいな。
何にしてもそうだがね。
色々と書いたが全てどうでもいいことである。
生きる為に必要かと言われればそうではない。
ただ、心を豊かに生きたいのであれば、芸術、哲学、思想やら精神ってものに興味を持つのも悪くはないかと、ただそれだけのこと。
休日はとにかく世の中から自分を隔離したいので、外には出たくないのだが、買い物は俺の仕事なので仕方なく出かけた。
次の車は何がいいか思いつかぬまま、1.5リッタークラスに留めてその範囲で何が良いかな?と悶々と数ヶ月前から考えているのだが、今日もそんなことをぐだぐだと考えながらドラッグストアで買い物を終えて、駐車場の車に戻る。
隣にはビートルに乗った若い姉ちゃんが携帯で話してる。
そう、生きるのに必要なものは金。世の中、金が全てである。
知識や技術なんて全く必要ない。欲しい車に乗る為に必要なのは金。
友情や愛情なんてそんなものは綺麗事。生きるのに必要なのは金。
チバは「SILENT DAYS」の中で、「信じるものもないけど、こんな世界に未練は無い」と言っている。結婚後、「ハレルヤ」、「シェリル」といった曲ではポジティブな一面も垣間見せたが。
幸せな人間がそう思うのなら、俺がそう思うのは尚更当然のこと。
そう思う今日この頃、正にSILENT DAYSと言える様な昼下がり。
同じ様に虚空を見つめて・・・こうして全てを失っていくわけである。
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